もう、大丈夫かな…。
深く眠りについた大野くんから、静かに離れて部屋の中を見回した。
何か、掛けるものはないかと探したが、この無駄なものを排除した殺風景な部屋には、それらしいものは見当たらない。
他の部屋に勝手に入るのは気が引けるし、とりあえず、私が着ている長めのカーディガンを脱いで、そっとかけてみる。
私にしては大きめのカーディガンが、大野くんの上に掛けるとすごく小さくて、それだけで心が揺れた。
やっぱり、好き…。
甘く囁きかけてくるような、優しいキスは、身体の中が、ドロドロに溶けてしまうくらい、私の中を掻き乱していった。
静かな部屋に、カチカチと鳴る時計の秒針。
私の鼓動は、いとも簡単にそれを追い抜き、さらに加速していく。
はあ…と一つ息を吐く。
ソファーからこぼれ落ちた大野くんの手を戻そうと、両手でそっと握った。
熱が、両の手のひらを通じて、真っ直ぐに伝わってくる。
ここに来たときは、「たぶん」だった気持ち。
それが、はっきりとしたものになり、そして今は、大野くんのことをもっと好きになろうとしていた。
ソファの横に膝をつき、汗でおでこに貼りついた、柔らかな前髪との間に手を忍ばせて、空いた片方の手は自分の額に当てながら、お互いの熱を比べてみる。
ああ、まだこんなにも熱い。
心配…。
熱が下がるまでは、そばに居たい。
けれど、このままここにいるのもなんだかよくない気がして、この先の行動を決めかねていたそのとき、私の携帯が鳴りはじめる。
起こしてしまっては元も子もないと、急いでバックから取り出してみれば、大野くんと同期で、同じく後輩の篠原くんだった。
篠原くんも、私と同様に上司に言われ、今日ここに一緒に来るはずだった。
けれど、急な仕事が入って行けなくなり、今もまだ会社で残業中とのこと。
「ところで、郁さん、今どこですか?」
「どこって…
私は大野くんの顔をチラリと見てから、正直に答えた。
…大野くんのウチだけど…。」
「えっ?行ったんですか?一人で?」
「うん…。」
「俺、今日一緒に行けなくなったから、やめましょうって言ったじゃないですか?男んちに一人で行くなんて無謀すぎますよ!いくら大野が草食系だからって…。」
草食系…ではなかったような…
なんて思いながら、篠原くんの言葉を聞いていた。
「…で、大野はどうでした?」
「ああ…えっと、風邪こじらせてすごい熱があって、今は薬を飲んで寝てるよ。」
「あ、うん、薬飲ませたし。」
「…飲ませたって、郁さんが?もう、なにやってるんすか!今すぐそこから出てください。郁さん、聞いてます?」
篠原くんの強い口調に圧倒されながら、私はここに来た時の大野くんの状況を説明し、今はやむを得なくここにいるということを弁明をした。
「それで、今帰るとこだったんだよ、そしたら、電話が…。」
私は、片手で机の上を片付けて、コップの水を入れ替えた。
最後に、ソファで寝ている大野くんに背を向けて座り、起きたらすぐに飲むようにと、薬の袋に書きこんでいく。
「じゃあ、今から出ます。うん、いろいろありがとう、うん、はい、分かった。うん、じゃ、また明日。」
篠原くんが電話を切ったのを確認して、私も電話を耳から離す。
…えっ?
ふっと一息ついて、肩を下ろした瞬間、ギュッと後ろから抱きしめられた。
ビックリし過ぎて、声も出ず固まっていると、後ろから少しかすれた大野くんの声。
「…さっそく不安にさせないで…。」
そして、身体全部を包むようにして、もう一度強く抱きしめられる。
大野くん…?
「今の…篠原?」
「あ…うん。今日一緒に来るはずだったから…。」
大野くんは、私の頬に自分の頬を寄せ、はあーっと長く息を吐いた。
「え?…ん、まあ…
大野くんは、私の身体の前で交差した右手を離し、テーブルの上の薬の袋を取ると、メモが書かれた方を裏にして、また机に戻した。
「…郁ちゃんが帰ったら、俺、薬飲まないから…。」
「何言ってんの…ダメだよ、飲まなきゃ。」
「嫌なもんは嫌だ。」
大野くんの身体は、まだこんなに熱い。
薬を飲まなかったら、いつまでたっても治らない。
「飲んで、お願いだから。」
「郁ちゃんは…篠原が帰れって言ったから帰るの?」
「え?なんでさっきから、篠原くん、篠原く…んっ…ん…
私が、薬の袋を手に取って振り向くのと、大野くんの唇が降りてくるのとが同時だった。
強くぶつかるように重なった唇は、さっきのキスとは違って、苦しいほど激しい。
「お…おの…くん…どうしたの…苦しいよ…
私の問いには答えず、代わりに何度も何度も唇を重ねてくる。
苦しくて、唇を離そうとすれば、強く抑えられて身動きがとれない。
まるで、身体の真ん中をギュッと掴まれているようで、全身が痛いくらいに痺れてくる。
息が上がる。
胸の上にとどまっていた大野くんの手が、乱暴に動き始めた。
何だか様子がおかしい。
「いや…やめて…どう…した、の…?」
私は、その手を上からおさえて、なんとか引き離す。
なおもキスを続ける大野くんの唇を、強く噛んだ。
狂ったようなキスが止み、
「…ごめん…。」
「バカだ、俺。郁…郁ちゃん、帰っていいよ…今日は、ありがとう。」
そう言って、大野くんは、ソファに寝転び丸くなった。
私は、何が何だか分からなくて、丸まった大野くんの顔を覗き込む。
「ねえ、どうしたの?風邪の菌が、頭に回っちゃったの?」
私は、心配してまじめに聞いたはずなのに、大野くんはクスッと笑って口を開いた。
「風邪の菌が頭に回って、おかしくなったと思ったの?」
「…うん…そう言うことがあるって聞いたことがあるから。」
大野くんは、バツが悪そうにしながら、鼻の下を人差し指で掻いた。
「違うよ。…郁ちゃんが、篠原と電話してたから。」
「篠原くんと電話したら、おかしくなるの?」
大野くんは、私の顔をまじまじと見つめた。
ああ、それやめて、穴が開くってば。
「郁ちゃんは、かわいいね。」
「な、何?突然。」
「そういうとこ、めちゃくちゃ好きなんだ。」
「そういうとこって…何よ?」
「…だから、そういうところだよ。」
そうして、スッと大野くんの手が伸びてきて、私の顎を掴んで顔を引き寄せる。
それから大野くんは、私の顔を、猫みたいに舐めていく。
まつ毛も、瞼も、鼻先も、頬も顎も耳たぶも…
そしてもう一度、私の唇をペロリと舐めてこう言った。
「郁は、俺のだから。」
何か言おうと開いた私の唇に、緩やかに重なる柔らかな唇は、泣きたくなるほど優しかった。
「俺は、郁のものだから。」
「もう少しだけ、ここにいて。」
そう言う大野くんを置いて、帰れるわけがない。
「…何もしないならいてあげる。」
「なんだよ、急に年上ぶって。」
「…じゃあ、帰る。」
「うそうそ、年上大好きです。」
「ありがと…ふふっ、篠原、ざまあみろ!」
「…うん。あ、ねえ、郁ちゃん、耳かして。」
「なに?」
私は、大野くんの口元に耳を寄せる。
「治ったら、デートしようね。」
胸が、キュンと音を立てた。
日付が変わるころ、下がった大野くんの熱。
私は、もう心配いらないと、握っていた手をそっと離して、この部屋を後にした。
ほんの少しの恥ずかしさと、いっぱいの嬉しさで、ふわりと膨らんだ私の心。
これじゃあ、明日会社で会ったら、にやけちゃいそうだ。
自然と笑顔になる頬を抑えながら、明るい満月の下を歩いて帰る。
ふふ、気をつけなきゃ。
自分で自分の頬を軽くたたいて、また笑った。
……………